「論理トレーニング101題」を読んでみて思ったことは、「グループワークとかでお偉いさんが見守る中競争相手の論理力の欠如、欠乏を指摘するのは最高に楽しそうだ。」だ。

 東京大学教授野矢茂樹先生の著書、「論理トレーニング101題」を読んだ。

 本書の目的は、論理の力を実践問題を解いていく過程で鍛えていくことだ。本書を読み終える頃には議論の読み方と論証の仕方が身に付く内容となっている。著者はこう言う。「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ。」と。なるほど。東大教授の言葉は重い。その言葉通り、必要な前提知識の解説はあるのだが、それは最小限にされており、後は問題を解き、解説を読み理解するの繰り返しだ。例えばこういう問題がある。

次の文章のおかしな点を指摘せよ。

「清潔はビョーキだ」の著書がある東京医科歯科大の藤田紘一郎教授(寄生虫学)も、座り派の増加について「清潔志向が行きすぎてアンバランスになってしまっている」と指摘する。「出たばかりの小便は雑菌もほとんどいない。その意味では水と同じぐらいきれいだ。なんで小便を毛嫌いするのか。ばい菌やにおいを退けすぎて、逆に生物としての人間本来の力を失いかけている一つの表れでないといいのですが」

朝日新聞、2000年3月26日付朝刊)

 次の立論に対して批判せよ。

あなたたちは新空港の工事に反対していた。その反対運動にも関わらずいまや新空港は完成した。あなたたちは反対していたのであるから、この新空港を利用すべきではない。

 解けただろうか。解けなかった人は本書或いは類書で論理の力を鍛えてみてはどうだろうか。解けて、かつこの程度の論理の力なら既に持っているので本書は必要ないと思った人も、論理の力に乏しいので鍛えてみたらどうか。その理由がわからないのなら尚更だ。

 何故私がこの本を手に取ったのか。特に理由はない。面白そうであったからだ。それだけだ。良くある「ロジカルシンキング」を謳う本なんかとは比べものにならない程良書であるらしいとの情報を受け取った途端、脳がアマゾンの購入ボタンをクリックするように指令をしていた。

 家に届いてから少しずつ読み、つい先ほど読み終わった。読み始めてから思ったのはタイトルにもある通り、「グループワークとかでお偉いさんが見守る中競争相手の論理力の欠如、欠乏を指摘するのは最高に楽しそうだ。」だ。というのも、本書を読み始めてから確かに論理の力が鍛えれているのを実感しているからだ。強くなったら何をするか。相手を殴ることだろう。先日Qちゃんこと高橋尚子さんがソチ・オリンピックの解説で竹内智香選手が一つ目のメダルを獲得した後「竹内智香選手も周りも喜んでいる。ただし、彼女は次のメダルに向けて云々。」という趣旨の発言をしていた(ような気がする)のだが、より接続詞に敏感になっていた私は「そこは『ただし』ではなく、『しかし』の方が適切なのでは?」と宜しくはない頭で考えていた。高橋さんの言いたいことがどちらであったかはわからないが、後者であると感じたのだ。このように接続詞一つの使い方だけではなく、論証の組み立ての甘さなどを指摘するのは間違いなく面白い。日本語が上手に使えない人間など、いくら顔や性格が良くても使えないだろう。そういう人間であると暴くのだ。しかし、これは論理の力のない者がいる環境にいなければ出来ないことである。しかし、本書が目指す論理の力はとても高い水準であるように感じられる。本書でとある東大生の解答例が紹介されているのだが、彼も正解をしてはいなかった。本書はこの言葉で締めくくられている。

論理トレーニングの成果は、親、兄弟、友人、恋人、そしてとりわけ配偶者に対して無分別に発揮してはいけない。(1)初心者がうかつに論理的分析力を発揮して批判すると、(2)少なくとも現在の日本社会においては、人間関係を損ねるおそれがある。刃を研ぎ澄まし、懐中に忍ばせておく。そして、ここぞというときに抜くのである。どういうときが「ここぞ」なのか。残念ながら、本書はそこまでめんどうを見ることはできない。読者諸氏のご自愛を願ってやまない。

 相手を選んで己の刃の猛威を振るう。これが本書を読んだ後にする最善の選択だ。この時期、何かと忙しい就活生にはもってこいの一冊だ。何だったら面接官の質問の意図をくみ取り、その思考が論理的ではないのならその欠陥を指摘しても良い。カツラであることがばれるよりも恥ずかしいだろう。冗談だ。

 余談ではあるが、東大教授の著者に、登場人物の開成高校卒東大生、そしてある問題の題材となっている彼の母校、開成高校の校長の言葉と学歴コンプレックスを抱いている者には辛い内容となっている。注意が必要だ。